ホントに子供にとって学校教育は必要か?『保存版・学校解体新書』

「子供が学校でいじめにあっている」

「学校教育とは何か根本から知りたい」

「子供にとって学校教育は必要か知りたい」

「学校の在り方に疑問を持ちはじめた」

「学校運営に不満がある」

「社会の変化に学校は必要か?と考えている」などの意見をお持ちの方向けに記事を書きました。

この記事を読まれている方の多くは学校に通い、学校を知っていると思いますが、学校とは何か?根本から理解して頂くために様々な角度からお伝えしたいと思います。

ちなみに誤解のないようにお伝えしますが、僕は小中高と比較的真面目に生活し、大学も卒業した人間です。

しかし、今の時代、学校教育に強い違和感しか感じていませんので、今回の記事を執筆するに至りました。

 

 

今回の結論

・子供にとって最も悲しいことは自分が嫌いになること。

学校は子供が自分を嫌いになる原因となっている。

・現代の社会変化に学校教育は合っていません。これから始まる「個の時代」に向けて、ますます学校の役割が薄くなっていく。

・学校教育とは管理教育であり、サラリーマン教育であるという点。

・普通という人はいない。

・組織があり、個人が属するのではない。個人がいるから組織が成り立つ。

大人(親)が子供達の模範になるために好きなことや楽しいことをしましょう。

苦手なことをさせると人は自信を失う

 

個人的に最もお伝えしたいことを最初に書きたいと思います。

それは当たり前ですが「苦手なことをさせると人は自信を失う」ということです。

これは生き生きとした生活を送るために、最も重要な根幹的情報だと考えます。

 

この社会は苦手なことを克服することで成長に繋がるという風潮が強いですね。

確かにできなかったことができるようになることは嬉しいことです。

しかし、それはあくまで積極的にこうなりたいと考え、行動した人がした話・感情であり、僕が伝えたいのは半強制的に苦手なことをさせられる子供達への心配なのです。

 

特に日本では苦手克服という考えが当たり前のように言われ、苦手なことを克服することは善という考え方で物事がスタートしている気さえします。

しかし、根本的に人には個性があり、得意なこと、苦手なことは人それぞれ違います。

長距離走が得意な人もいれば、短距離走が得意な人もいますし、そもそも運動全般は得意ではないけれども、博士並に生き物に詳しいという人もいます。

そんなことは自然の摂理であり、当たり前だと皆わかっているはずですが、実際にやっていることは丸で反対のことをしています。

 

ポケモンに例えると非常にわかりやすいのですが、苦手なこと強要する人は、炎タイプのヒトカゲに苦手な「水鉄砲」も出来る様になりなさい、と言い、電気タイプのピカチュウに苦手な地面タイプの「穴を掘る」も出来る様になりなさいと言っている様なものです。

ここで社会に出るための学校教育、小中高の話に移りますが苦手なことを強要しているのが、まさかの学校教育です。

学校では、小学生に入ると各教科を先生方が教えてくれます。

そして、点数をまるで競わせるようにして、各教科の点数を均等にあげようとします。

均等に点数をあげようとしているということは自然と苦手なこと(教科)もしなくてはいけないということですね。

この苦手なこと(教科)を「苦手なことを克服することで成長する」という論理や風潮で無理やり・半強制的にさせようとしているのが学校ではないでしょうか。

そもそも成長するというのは何をもって成長するか回答できる人は皆無なはずです。

なぜなら、成長とは極めて曖昧な概念だからです。

数字が上がったら成長でしょ?と意見がありそうですが、それなら、年齢を重ね元々できていたことが出来なくなり数字が下がったら何なのでしょう。

昔、勉強して覚えたことを忘れたら衰退ですか?

成長について考えるとやっぱり何か引っかかるのです。

 

「苦手なことをすることは大事なこと」と真剣に語る人もいるのは知っていますが、基本的に人間は苦手なことに苦痛を感じます。

子供達はすごく素直で、シンプルに嫌なものは嫌なのです。

嫌なことをずっとさせ続けた結果、常に我慢をすることに繋がり、自己肯定感が低くなるのです。

自己肯定感が低くなった結果、子供達は自分のことが嫌いになります。

自分のことが嫌いになる子は他人も嫌いになります。

それがいじめ等や問題行動や他人に迷惑をかける行為に繋がってしまっているのです。

 

これを悪用すれば、自己肯定感を悪意を持って下げさせ、自分が常に優位に立つように仕向けたい場合、相手が苦手なことを永遠とさせれば良いのです。

実は家庭・学校で子供達に強いていることはとても残酷なことです。

冷静に考えるだけでもこの社会は何なんだと悲しくなります。

僕も小学生に入学した1週間が一番人生で悲しい期間だったようにも思えます。

子供の頃の直感は意外と的を射ています。

 

そして、大人になり、学校教育が終わり、社会に出ても尚、苦手なことを克服するように圧力が続いていくのです。

苦手なことをし続け、自己肯定感が低くなった結果、自分に自信が持てず、果てには自分が得意なことまで忘れてしまうのが学校教育の一番最初に行われているのです。

学校の先生はそこまで理解している人はほぼ皆無だと思いますし、学校の先生が悪いというわけでもありません。

ただ、学校教育という仕組み自体見直さなければなりません。

それぞれの個性を肯定する世界観が重要です。

 

さらに子供達から自信を奪う要因は常に他人との比較させるという点にあります。

「競争が人を成長させる」というあるスポーツマンの言葉がありますが、詳しく聞くとそれは勝者の論理であり、結果論です。

全員には当てはまらないと思います。

現に、競争した結果、他人と常に比べられ、自分は大した事がないと自信をなくす子供達がどれだけいたことか、考えるだけでも悲しくなります。

綺麗事でも何でもなく、人にはそれぞれ人の良さがあります。

 

お互いに競争したい人は競争したって良いと思います。

僕も他人と面白がって競争することもありますし、囲碁や将棋やトランプの対戦も面白がってやります。

でも、競争したくないと思っている子に対しては半強制的に競争させる必要性は全くなく、本人の希望性にしたら良いと思います。

 

それでも「競争しなくてはこの厳しい社会では生き残れない」という意見の方もいるでしょう。

しかし、競争させ社会で生き残るという論理は与えられることに限りがある労働者的な発想であり、社会的にインパクトを残した人やスポーツで活躍した人、有名な音楽家の方々は競争して成功したわけではないですよ。

自分を一生懸命楽しんで表現した結果、そうなっただけであり、根本的には競争は不要で、重要なのはその子に眠る個性という才能そのものなのです。

 

冒頭にも触れましたが、人には得手不得手があります。

それも子供達の数だけあり、全てが均等に揃っている子供像は幻想です。

なんでも出来る天才少年という像はメディアが作り出した幻想であることに気がつかないといけません。

今の社会風潮や学校教育や一部の親の躾は「何でもできるようになる」という幻想を追いかけ続けていると言わざるを得ません。

僕なら子供がもう少し大きくなったら一言「苦手なことはしなくて良いよ」とそっと伝えると思います。

先生の言うことを聞かない子は罰を受ける

 

小学生の頃のクラスでは、色々なグループが出来たり、大人で言うと派閥に近いような感じがクラスで出来上がりますよね。

そうしたミニ派閥的なものって実は先生の教育が影響しているような気がします。

例えば、先生の言うことに素直に従う子が良い子、従わない子が悪い子という教育です。

従順に従う良い子ちゃんグループ、とりあえず先生の言うことを聞いとこうグループ、先生の話はほとんど聞かない、または逆らう的なグループに分かれていくと思います。

大人の皆さんなら学校で過ごした思い出の中で、何となく思い当たりますよね。

 

こうしたグループって大体小学校の低学年の頃に何となくグループ化していくんですよね。

先生も素直に言うことを聞かない生徒に対して罰を与えますから、それを周りの子がみてどう対応していくか、どんな振る舞いをクラスでやっていくか、どこのグループに入るかなどを各々で考え、自然発生的にグループ化していくのです。

学校側は管理を浸透させ、従順な生徒が良くて従わない生徒は悪いと言う強い刷り込みをしていくわけです。

従わない生徒はシンプルに先生の言うことに賛同できず、違和感を感じていたりするだけなのですが。

先生方は自分達がやっていることは管理教育であると特に意識していないと思いますし、それが良いと思ってやってきているはずですので先生方を責めるつもりはありません。

しかし、今後の未来を考えた時、果たしてその教育で豊かな未来が創造できるのか疑問でしかありません。

もう、学生から新卒でサラリーマンを大量に採用するスタイルで同じ会社で定年まで働き、定年後は年金生活なんて世界はないんですよ。本当に。

個性がない社会

 

学校はまるで金太郎飴製造工場であると言えます。

昭和以前の国策と同時に商業主義の基盤となる労働者を作り出すための機関であるのが学校教育の本質であるなら、全ての辻褄が合うわけです。

 

金太郎飴のようにどこを切っても同じ柄で同じ形で、極端に言うと個性のカケラもない状態です。

自分では特に何も考えず、個性がない同じスーツを着た人間がオフィスで並び仕事をする、そして、上層部の指示を従順に従い、仕事をし生活していく。

こうした世界観・価値観の中で日本は数十年経済的に成長してきたのですから、商業的視点で見れば学校教育は大成功と言えるのかもしれません。

ただ、詳しくは後述しますが、今は時代が違います。

中身がない大企業が増えてきており、どんどん個人の生き方に時代がフォーカスしていきます。

 

別の記事でも記載していますが、言葉が話せない時期から子供には個性があります。

学校ではそうした生まれながらの個性を潰してしまうシステムになっているのです。

個性を潰されれば、自分らしく生き生きとした生活など出来るわけもありません。

これでは子供の才能など、伸びるものも伸びませんし、学校教育をドストレートにやっていたら、いずれ、勉強や部活に追われ、自分が好きなこと、得意なことすら忘れてしまう可能性があります。

 

学力とは何か?テストの正解が正解ではない

 

僕は子供の頃、親にもっと勉強して良い学校を出ていたら良かったと耳にタコが出来るくらい言われました。

今ではもうどっちでも良いと思うよ、と言っていますが、そもそも勉強する目的とは何だったのかと言えば、学力向上→良い高校・大学に入り、良い会社に勤め、安定した生活を送る的な感じでしたよね。

現在、この過去の王道的な成功エピソードを追求しても何もなく、むしろマイナスに転じてしまうと思います。

なぜなら、学力を高めても良い会社に就職でき、安定して生活が送れる保証はどこにもないからです。

銀行は潰れない!公務員は安定している!と昔さんざん言われていましたが、今の世の中、銀行はどんどん潰れ、公務員は激務に耐えています。

真の安定とは変化し続けることです。

だからこそ、その時期に応じて柔軟に動けるようにしておいた方が良いと感じますね。

 

それで学力の話ですが、僕は「正解を求める思考」そのものに大きな欠陥があると思っています。

学校ではどの教科でも正解とさせる答えが用意されていますが、それを覚えたところで社会で役に立つかと言えば、皆様もご存知の通りです。

それよりも正解があると言う凝り固まった考え方に問題があると言わざるを得ません。

例えば、「1+1=2」であると言う計算式は一見、何の変哲もなく合っているように感じると思います。

しかし、それはあくまで平面的な物の見方に過ぎず、「立体的にみる」「別の視点からみると言う思考」があれば別の回答も存在するのです。

つまり、その時に最善の回答はあれど、多角的に見れば真の意味での正解などないのです。

また、詳しくは書きませんが「学力=考える力ではない」のです。

もう一つわかりやすい例をあげると幼児用で「さかなってなにさ」という絵本があります。

簡単にあらすじを説明すると「毎日クローバーばかり食べているウサギさんが魚について興味を持ち始めます。

そのウサギさんは会った人全員に魚とは何かを問います。

しかし、各々に回答される答えはそれぞれバラバラです。大きい、小さい、黒い、赤い、平べったい、美味しいなどなど、全くイメージが出来ない答えばかりでした。

そこでウサギさんは海の中に実際に潜ってみて、たくさんの魚を見るのですが、結局は色々な種類や大きさがあり、魚とは何かよくわからず、やっぱりクローバーを食べるのが良いと言うストーリーです。」

 

このストーリーに対して様々な説明ができます。

まず答えは人により全く違うということ、環境や立場が違えば回答も違います。

また、抽象的な魚という生き物を実際に目撃しても明確に説明するのは難しいということ。

上記の絵本は子供用に書かれているから、と内容を小バカにされることもありますが、書いているのは大の大人です。

大人が忘れてしまっているとても大切なメッセージを伝えてくれているように感じますし、学校教育のように問題には一つの正解があるという考え方は、現実に生きている我々の視野や捉え方に極めて偏りを生じさせます。

つまり、学力向上のために正解と思しきものを覚え続けることはナンセンス以外の何者でもないです。

 

むしろ、学力をあげるためだけの勉強は意味のない数字の羅列や文字の羅列を見続けることで次第に思考しなくなり、自分で考えることをやめてしまう可能性すらあります。

それがとても怖いことなのに、声を大にして伝える人が本当に少ないのが今の現状です。

冷静に考えてください。

その子が興味があることは自然と勝手に勉強しますから、強制的に学校的な学力向上の勉強をさせる必要性はないと思います。

 

自己犠牲の精神は素晴らしい?

 

学校では他人に迷惑をかけないように、他人のことを大事に考え、我慢しましょうと教わります。

要は自己犠牲の精神を解くわけです。

しかし、豊かに生活したいのであれば、真実は逆です。

自分を大事にすることが他人を大事にすることに繋がるのです。

自分を大事にすることで、自分自身が満たされ、初めて他人に目がいくのです。

コップが溢れるには水で満たさなければいけないのと一緒です。

満たされず、不足している状態では、人は不機嫌になるだけです。

自己犠牲を半強制的に小さな頃から強いられると自分を大事に出来ない子供が増え、大人になっても同じことの繰り返しです。

結果、不機嫌な人が増え、常に社会では犯罪などの問題が発生し、果てには他人に無関心になっていき、人との繋がりを軽視していくのです。

今の社会では人と繋がりを軽視した結果、人々がそれぞれ孤立しています。

そこに人の温もりはありませんよね。

我々大人が「自分を大事に出来ないことの悲しさを知る」必要があります。

これこそが現代社会の苦しさの根本そのものなのです。

 

翻って皆さんはどうですか。

自己犠牲とは自分を大事にしない行為そのものです。

世間から大事な大事な子供を虐待するニュースが途絶えない理由は、ほとんどが虐待した親がおかしな人だからではないのです。

(もちろん、元々攻撃的な性格の持ち主ということもありますが・・・)

親である自分自身がこの管理社会の中で疲弊している状態で、自分自身が精神的にも肉体的にも全く満たされないでいるのです。

その結果、考え方や精神面が根本から捻じ曲がり、すでに修復不可能な状態になり、異常行動とも取れる行動をとってしまうのです。

これは当たり前ですが、親の虐待に限ったことではありません。

こうした例は枚挙に遑がありません。

日本の社会では、教育による負のループが続いてしまっているのです。

だからこそ、根本的なことを理解する必要があるのです。

 

親や宗教、学校から教えられてきたことと真逆で信じられませんか?

でも、この社会ではあまりに刷り込みが強く、本当のことを教えてくれる人はほとんどいませんから。

普通という刷り込み

 

昨今、普通はこうだからあなたもこうしなさい、とか、みんな苦しいんだから我慢しなさい、とか、みんなのためにこうしなさいという世間的風潮が強くなっているように感じます。

そもそもみんなが目指す普通とは何なのでしょうか。

普通はこうでしょ!と言ってくる人にそれを伝えても明確に回答してくれた人はいません。

僕の経験上。

これも成長という言葉と一緒でかなり曖昧な言葉であり、多くの子供達を縛りつける言葉の一つだと思います。

子供達はただでさえ、学校で平均化された、いわゆる普通の人という偶像を押し付けられて育っています。

でも、普通の人という概念はあれど、そう言う人はいないのです。

みな、細かく見れば個性的な部分があるからです。

 

だからこそ、普通という言葉を使われたら少し疑問を感じた方が良いと思います。

あまりにも平均的な考えが馴染みすぎているので、考えていない人が多いですが、普通の服はMサイズだから、どんな体の人でもMサイズを着なさいと言われているような強引な話なのです。

おかしなことに気が付きますよね。

 

何でも平均化した実態のない物の考えをすれば良いという物ではありません。

医療でも、経済でも、この平均化した結果を持ち出し過ぎですが、これは学校教育による弊害でしょうか。

平均体温とはなんですか。

体温は老若男女それぞれ違いますから、対応方法は全て違うはずです。

 

個の時代の始まり

 

ここまで散々学校の悪口?みたいなものを述べてきました。

でも、ここまで読んで頂いた方なら、どう行動するべきか、自分はどうするべきか閃いた方もいらっしゃると思います。

この記事で記載していることは、本当の自分の個性を輝かせるチャンスであり、きっかけです。

親の行動が子供にも大きく影響していくと感じてなりませんから、親が動く時です。

 

学校の悪口記事かと思えば、本当はあなた自身の応援記事なのです。

僕も自分自身の人生をゆっくり変えていこうと考えている1人です。

いつだって人生は変えられます。

このブログのタイトルに全ての答えが載っています。

ASOB

「遊ぶ、遊べ、遊ぼう」どう解釈しても良いですが、大人(親)が子供達の模範になるために好きなことや楽しいことをしましょうと言うコンセプトなのです。

 

さて本題ですが、個の時代とはなんでしょうか。

様々なところで言われるワードのため、この記事ではある程度明確にしておきます。

個の時代とは「自分を大事にする時代」「個人が好きなこと得意なことを社会に提供する時代」のことです。

そんな甘い社会になるわけがないと突っ込まれる方も多くいらっしゃると思いますが、僕は大真面目に書いています。

気づく人は気づいていますが、本人の意識が変われば社会は変わっていきます。

本質を見れば、社会を支えているのは一人一人の人間が支えているのです。

金融・政治・国・会社などなど様々な組織や枠組みがあって成り立つのではなく、個人個人が全ての社会を支えていると言う当たり前の事実に多くの人はフォーカスできていません。

昔は会社に個人が勤め、会社に従い、会社と人生を共にする的なことを教えられてきたかもしれませんが、どう考えても個人がいるから組織は成り立つのです。

個人の集まりが組織として機能しているだけです。

そう視点を変えてみると、個人が主体であり、個人がそれぞれ生き方を決めて良いのだと気が付けます。

僕はそうした気づきの転換期にすでに入ってきていると感じています。

 

昨今はブラック企業問題や社会風潮の変化などで若い人達の就職先がどんどん変わってきているそうです。

結果的に時間の経過と共に何が起きているかと言えば、ブラックで不人気な業種や会社が自然と消滅に向かうと言うことです。

なぜなら、ブラック企業を支える個人が居なくなるからです。

繰り返しになりますが、企業が主で個人が従ではなく、本質は個人が主なのですから。

世間の刷り込みに騙されないでください。

 

今、うちの子は2歳前ですが、この子が大きくなる頃にはもう上記のことを議論するまでもない状態になっていて、話の話題にすらならない時代になっていくように感じます。

 

これからは、子供が小さい頃から楽しむ、遊ぶと言う事に、より深く重要な意味があります。

本人が希望すれば別ですが、無理強いして嫌いな勉強を押し付け、子供を厳しく躾、管理する学校と言う役割が薄くなっていると伝えたいのです。

何らかのプロとして活躍するのであれば、人々に伝えるために言葉を知らなくてはいけませんから、基礎的な読み書き算盤などは一緒に勉強するかもしれませんが、他は特に制限を付けたり、厳しく何かを言いつけることはしないと思います。

ただただ、子供本人の個性とその時の気付きからの行動に任せるだけです。

小さい頃から本人が勝手に自分の好きなことや得意なことに気がつけるように、行きたい所に連れていったり、一緒にたくさん遊びたいと思います。

最近はプログラミングや水泳などの習い事をさせる家庭もあると思いますが、習い事をしてみて本人がやりたいと言えば継続すれば良いと思いますし、嫌そうならやめさせれば良いだけの話です。

そうした経験の機会を設けることは素晴らしいことだと思います。

子供のことを大事に思うのではあれば、小さな頃から子供の行動を自由にし、ある程度干渉しないと言うことも一つの愛なのかもしれませんね。

トップアスリートや囲碁などのトップ棋士の家庭では、子供に干渉しないスタイルで子育てしているそうです。

人を困らせる「わがまま」ではなく子供の「我がまま」は寛容していきたいものです。

そして、手をかけずに目をかけるのです。

 

学校否定の記事ですが、生き方はそれぞれです。

僕の記事内容を完全否定して頂いても結構です。

もちろん全肯定して頂いても嬉しいです。笑

子供の学校登校の有無などもそれぞれの状況で、家族同士話し合い、各家庭で決めてください。

この記事の考え方を一つでも参照頂き、柔軟に子供への教育へと転換して頂ければ、幸いでございます。

今後はさらに詳細な生き方についてのお役立ち記事を執筆していきます。

 

○平原綾香:Jupiter

痛みに触れさせて そっと目を閉じて

夢を失うよりも 悲しいことは

自分を信じてあげられないこと

 

最後までご覧頂きありがとうございます。

プロフィール

プロフィール「新しい子育て研究家兼ライフコンディショナー」

○名前:じょーもんパパ ○出身地:青森県 30代のアウトドア・釣り好き、サッカー日本代表好き。 「2歳の男の子・0歳の女の子」二児の父親。 妻と息子と娘と4人暮らし。自分も子供も大事にする子育て・生き方を模索中。興味のあることは何でもやってみるをモットーに生活中。「自分が生まれた意味」は好きなこと・得意なことにこっそり隠れていると信じている。自分を満たすからこそ、コップから溢れるように周りも大事に出来ると伝えている。

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