「自分の子供が重度のいじめに悩んでいる」
「学校教育でのいじめはなぜ、無くならないのか疑問を持っている」
「日本ではなぜいじめが多いのか理由が知りたいと思っている」
「学校に通わせない方が子供にとって良いのではないかと、いじめ問題で考え始めた」
といういじめ問題に対して深く悩んでいる方向けの記事です。
今回の結論
学校教育とは管理教育でありサラリーマン教育
管理教育で我慢をする子供は不満が溜まり、満たされない気持ちをどこかから奪う必要が出てくる、それがいじめの本質。(それらをエネルギーバンパイアと呼ぶ)
エネルギーバンパイアの連鎖が起きることが学校の中で起きている
学校内ではいじめ問題に対して誰も責任を取らない
学校内でのいじめを完全に避けるには、基本的に学校から離れるしかない
いじめ問題の解決は「そこから離れること」以外ない
多くの人がいじめ問題の知識については、実際の学校生活、親になり自身の学校で起きた実話、知人やテレビ・ニュースなどからいじめに関する情報をある程度持ち合わせていると思います。
ですので、具体的ないじめ内容はあえて割愛します。
でも、どうしてこうもいじめは無くならずにずっと続くのでしょうか。
僕は今回の記事でその答えについて明確に回答したいと思います。
その前に、いじめの当事者として苦しんでいる子供本人やその親御さんがいらっしゃる場合、その答えは学校の仕組みを責めることやいじめ問題のことを徹底的に調べたり、いじめの加害者のことを非難することではありません。
単純な解決策は「そこから離れること」です。
これ以外に根本的な解決策はありません。
単純に嫌なものは「嫌」と断る勇気が必要であり、断ることがとても大切ですがそれが最初から出来ていたらいじめられないですよね。
僕は大人になってからは嫌なものは嫌と言えるメンタルになりましたが、学校に通っていたことは「嫌」と言えば、学校の先生からも他の生徒からもこちらにとって都合の悪い状況に追い込まれるのが怖くて嫌と言えませんでした。
そのため、いじめ相手に何を要求されても「嫌」と引かずに伝えることですが、多くの場合、それができない個性の方も多いので、僕はそこから離れることを強く推奨します。
学校の成績が下がることやそもそも学校に通わなければいけないという親御さんの気持ちやお考えも十分に理解できます。
ただ、学校に通うことにより、子供の心が傷つき、自尊心が下がり、毎日想像以上のストレスにさらされる苦痛は何者にも変えがたい苦痛です。
場合によっては、自分の人生を終える選択肢を考えてしまうほど、本人にとってはとても苦しい問題です。
そのことを何より重要視して考えたいものです。
大人になれば、少し広い視点で物事をみることができますが、学校という閉鎖的な空間から子供達は逃げることができません。
いじめ加害者もいじめることに必死になっています。
残念ながら、開かれた刑務所のような閉塞感と共に、まるで自分の価値を根本から否定されたようなとても苦しい状態を強いられているのです。
後ほど、話しますが、僕も部活のいじめを高校生の頃に経験しました。
加害者にも被害者にもなりました。
その経験もあり、いじめという問題は本人にとっては、学校の成績や将来の話どころではない今解決して欲しい現実そのものなのです。
ですから、もし、いじめ被害を受けている本人やその親御さんらがこの記事を読まれているのであれば、一刻も早く学校や塾などのいじめが発生する場所から離れることを強く推奨します。
それがデジタル上で発生しているLINEやSNSなどで起きているのであれば、ログアウトして一切見ないことです。
見なければ、何も起きていないのと一緒です。
また、場合によってはアカウントごと削除して、いじめの場やいじめをされる機会そのものをなくしてしまうことです。
将来の心配をするより、今を大事にしてください。
今を大事にできなければ、将来も苦しいままです。
いじめ加害者やいじめ被害者の話を沢山、聞き、沢山読んできましたが、結果的に互いに分かり合えないことの方が多いです。
いじめ加害者の側からすれば、「なんとなくムカつく」「なんとなく気に入らない」という感覚で攻撃している場合もあります。
何となくムカつくのは完全にいじめ加害者側の問題でありますが、確実に言えることは本人に更正してほしいとか仲良くして欲しいと希望を伝えるのは不要であるということです。
親御さん同士で、話し合いもしても良いとは思いますが、相手の親御さんを交えていじめ問題の話し合いを行っても、いじめ加害者の本人をさらに窮屈にさせることになり、いじめ加害者もいじめている側ですが、親からの圧力により苦しくなってしまいます。
根本的な話は、学校や親からの管理教育の結果、本人が全てにおいて我慢させられ、不満が溜まった結果、誰かをいじめるという行動に走るケースがほとんどです。
これらを「エネルギーバンパイア」と表現します。
つまり、エネルギーバンパイアが一度発生してしまうと、連鎖的に親から子へ、子から別の子へ、そして、その子からさらに別の子へとエネルギーの取り合いが発生するのです。
つまり、この社会の教育の仕組み上、必ずいじめ加害者は発生するのです。
学校教育の根本である競争や比較、そして、均一的な人間を作るための没個性の教育をしている限り、これは永遠と続くことでしょう。
いい加減、この学校教育の歴史を通じて、そうした当たり前のことに大人が気がついていかなくてはいけません。
つまり、教育の内容云々や仕組みでは解決しないのです。
本人が我慢し、不満を溜めていることが最大の要因なのですから。
また、子供には様々な個性があり、均一には語れないのですが、どう解釈しても元々攻撃的な個性を持った子も一定数います。
そうした子は学校のみならず、社会に出ても攻撃をし続ける人生を歩むでしょう。
攻撃的な個性を持つ子供と一緒にいる場合、必ず攻撃される人が必要です。
万が一、そうした子と一緒になった場合、先ほども記載の通り、離れるや距離をおくというアプローチしか根本的な解決策はありません。
様々な歴史が証明しているように、攻撃やいじめを受けたから、やり返すという対立をしてしまうと、最終的には力が強い者が勝ちます。
いじめ被害者が加害者に対して、やり返して、スカッとする話が世の中にはありますが、そうした話を鵜呑みにしてはいけません。
必ず、最終的には力の強い方が勝ちます。
つまり、やり返しをして、より相手に酷いやり返しをされたら、やり返しをしない方が良かったと後悔することになるかもしれません。
いくら正義の訴えを起こしても、最終的には力の強い者に言いくるめられる、力の強い者に屈服してしまう、という現実は大人の方なら誰もが経験があるはずです。
これは理屈ではなく、経験上、そうではないでしょうか。
繰り返しになりますが、対立した場合、最終的には力の強い方が勝ってしまうのです。
そういうことであれば、最初から対立しないで、そっと離れるという選択肢をとることが一番賢く、相手の現実から自分が消えた方がお互いにとっても良いのです。
具体的な解決方法として、学校には行かない・転校する・定時制の学校に入るなどなどが考えられます。
今の時代、学校に通って勉強して、卒業することが必須ではありません。
また、学校を卒業して就職する必要はありません。
仕事を創造し、作ることが数十年前より遥かに難易度が下がっています。
本人の目標次第ではどんなことでも目指せます。
安心してください。
仕事を探す時代から仕事を作り出す時代なのです。
学校教育の本質は「管理教育・サラリーマン教育」
この話をすると、顔を真っ赤にして怒る人もいるのは理解しています。
ですが、この社会を理解するためにとても大事な情報ですので、ドストレートに表現します。
戦後から日本で続くこの633(小中高)の教育とは均一的な没個性な労働者をつくるための教育です。
詳しくはこちらの記事で記載しています。
ホントに子供にとって学校教育は必要か?『保存版・学校解体新書』
「子供が学校でいじめにあっている」「いじめから子供達を救いたいと考えている」「学校教育とは何か根本から知りたい」「子供にとって学校教育は必要か知りたい」「学校の在り方に疑問を持ちはじめた」「学校運営に不満がある」「社会の変化に学校は必要か?と考えている...
戦後の経済を成長させるために、大量の労働者が都会・都心部に必要でした。
なぜ、都会・都心部に集めるかと言えば、多少のストレスを与え、競争させ、そして、管理しやすく効率よく仕事をしてもらうためです。
そのために、様々な事象がありましたし、様々な一般常識とされる「当たり前」が流布されました。
都会に大学が集中するのも、テレビや学校で、良い大学を出て良い会社に入ることが一番人として良い人生と教えられたのではないでしょうか。
僕も言われました。
バブル時代前後のテレビでの放送やドラマなんかを思い出せる人は思い出してみてください。
親子で高層マンションに住み、夫婦で優雅に暮らすと言ったトレンディドラマが流行っていませんでしたでしょうか。
1980年代の話です。
全て、従順に従う労働者をつくり、国を発展させるための大きな戦略の一つに組み込まれているのです。
戦後から続くそうした日本の教育の歴史的な流れで、現代は当時の経済成長としての大量生産や大量消費の時代から離れています。
さらに昨今は都心部集中型の生活にも若い人たちは全く憧れていません。
東京は東京ですが、ただ、それだけです。
当時は、個人が大事にされる社会とは経済優先した時代は逆行していたのです。
現代は、そのことに多くの人たちが気づき始めました。
学校でのいじめ問題とは、その経済を優先した労働者作りの社会の名残とも言えます。
日本の子供が少なくなっている問題が取り打坐されていますが、これは政府側から困っているという視点であり、実際庶民とされる人々には少子化になろうとあまり関係ありません。
なぜなら、少子化=労働者が減っているという話で、普通に町で暮らしている人たちにとって、子供の数が減っていても暮らしができていれば何も問題がないわけです。
税金などが少なくなるため困るのは政府ということです。
子供が少なくなっているから労働的な価値が上がっているわけです。
その子供達に単なる労働をさせるのではなく、これからの時代は自分の人生を深く追求して欲しいと考えています。
なぜなら、日本という国は、沢山の選択肢が持てる国だからです。
アフリカの国のように駅で人がしょっちゅう倒れている、紛争地帯にいるなどの困難な状況ではないのですから。
世界を旅してきた人たちは皆、口を揃えて、他国の子供達の方が物も少なく、苦しく、選択肢のない中で生きているのに、とても幸せそうに見えるという話を聞くことがあります。
日本の子供達は下を向いて、夢について語らず、暗い表情をしているというのです。
これこそが、日本の学校教育の結果ではないでしょうか。
子供達が幸せそうでない、教育にしがみつく時代ももう終焉を迎えようとしている気がしています。
多くの人たちがおかしいことはおかしいと肌感覚で気づき始めています。
昔からの慣習でよくないこと、明らかにおかしなこともやらなくなっています。
子供達の生活の中心の場になる学校教育については、特にこれから当事者及び親御さんが考えていくべきことだと僕は思います。
具体的には、個人が活躍する社会の創造のために、個人が自立して生きていくとはどういうことなのか、考えていく必要があります。
これまで通り、良い大学に行き、良い会社に入社するという流れは時代遅れです。
この時代に終身雇用で退職金まで丁寧にくれる昭和時代のやり方をした会社はほぼ消滅しているはずです。
そんな中これまで通りの学力テストや紙ベースの暗記教育で、大学を目指すというルートにどれだけの価値があるでしょうか。
大学に行かずとも色々な選択肢があるのがこの国の本当の良さです。
中卒の社長が活躍している例は枚挙に遑がありませんね。
とても素晴らしいことではないでしょうか。
宗教やその国の重要な社会基盤などの関係上、とても不自由な生活を強いられ、選択肢がない中で生活している人は沢山います。
ですから、まず学校というところに長く通う必要がそもそもあるのか、という点を一から考察してみる時代に入っています。
事なかれ主義の学校
この社会を蝕む精神の一つに「事なかれ主義」があります。
それは学校内という特殊な環境でも変わりません。
先生方は自分達の保身のために、いじめがある事実を隠蔽したり、なかったことにする例も沢山報告されています。
それらは学校の先生に非があるのでしょうか。
僕はこの事なかれ主義の問題も、学校教育で教えられる誤った教育的概念が根本的な要因だと感じています。
このブログでは散々「自分のことを大事に出来る人が他人も大事に出来る」「自分のコップを満たすと溢れた分が他人に還元される」という話をしています。
学校では「困った人がいれば助けなさい」と習います。
とても素晴らしいことだと思います。
しかし、実はその言葉の前にとても勘違いした言葉が付け加えられているのです。
それは「自己犠牲してでも」という言葉です。
「自己犠牲してでも困った人がいれば助けなさい」と言われます。
それは明確な間違いです。
先ほどもお伝えの通り、自分自身に余裕がなく満たされていないのに、真の意味で他人を助けることなどできないのです。
学校の先生も同じ状況です。
部活の顧問であれば、土日返上で長時間労働を強いられています。
気持ちでは学校の先生という立場で、一生懸命働かれている先生も、ガッツのある先生も、素晴らしい指導をされる先生も沢山いらっしゃいます。
しかし、気持ちだけではどうにもなりません。
長時間労働をしている上に、自分の時間も取れず、しかも、ある意味社会と断絶している学校という閉鎖空間を毎日のように往復していたら、「自分を大事にする」なんてことを忘れてしまいます。
自分を大事にすることを忘れた結果、他人(生徒・学生)のことを大事にする心すら失っていくのです。
その結果、学校での数えきれないほどの体罰や虐待、不祥事などに繋がっていき、いじめ問題の責任をとるなんて持っての他という発想になっていくのです。
余裕のない先生が余裕を持った指導はできません。
当たり前ですが、これが学校内で生じている事象です。
先ほどもお伝えしている通り、学校はサラリーマン教育するための現場です。
従順に従う生徒が良しとされる閉鎖的空間です。
そういう空間で長い間学校の先生だけをやってきた人にとって、生徒の良し悪しは先生の言うことを聞くか聞かないかという思想がベースにあります。
そのため、生徒にそれぞれ個性があってもそれを無視し、学校で教えることが正しいことと詰め込んでいきます。
その詰め込みをしている本人でさえも、さらに上の先生や過剰になんでもかんでも学校のせいにしてくる保護者の方々の相手をしなくてはならず、三重苦、四重苦の精神的・肉体的にも重労働をしているのが学校の先生という仕事です。
そんな重労働の仕事をしている先生にとって、生徒に一人一人寄り添って考えるという行動も取りたくても取れなくなっていくのが実情ではないでしょうか。
結果、全てにおいて事なかれ主義と化していくのです。
ですから、学校の先生をいじめ問題で追求し、責め立てても解決はしません。
彼らだってとても苦しいんですから。
だから、子供を本気で守りたいのであれば、抗議することではなく離れるしかないのです。
僕のいじめ体験
最後の話は僕が実際に体験したいじめのリアルについてお話しします。
当然ですが、ネット上に公開するのははじめてです。
僕は高校生になり、あるスポーツの強豪校に属しました。
その地域では名前を知らない人がいないほど、有名な高校で、部活で大活躍し、あわよくばモテたいという気持ちで入部したことを今でもよく覚えています。
僕の高校では、全体的にスポーツのレベルが高く、県内でも様々な競技で入賞しており、当時はバレー部や全く関係ない部活の顧問が他の部活の生徒を殴るなんてことも普通にあった時代です。
田舎と都心部では10年くらい時代がズレていると思うので、僕は平成生まれですが、まるで昭和のスポ根時代のような経験をしていました。
入部してすぐに、先輩が圧倒的な権力を持っており、先輩が気に食わない後輩は、当時グランドの裏にあったコンテナの裏に呼び出され、殴られていました。
今考えたらとんでもないことですが、当時はそれが当たり前だと洗脳されていました。
先輩が後輩をいたぶる、後輩が同級生の一部の人間にいたずらやいじめをすることが横行していました。
当然、顧問の先生が見ていない時に行われていました。
僕はさほど大きないじめ被害は受けませんでしたが、先輩の指示で同級生を殴ったり、いたずらをしたりもしましたので、僕もいじめの加害者ということになります。泣
反対に僕も悪口を言われ、先輩の前に何度も罵られたりすることも何度も何度もありました。
当時の精神状態は、誰か喧嘩をふっかけてきたら、殴ってやろうという状態にまでなっていました。
僕自身も重度のエネルギーバンパイアだったのです。
それも1年以上続き、ある時、特にひどいいじめを受けていた1年生の親から、学校側に告発がありました。
体にアザがあり、下着などもしょっちゅう紛失して帰ってくるという内容だったようです。
この時、顧問の先生は、数日という時間を使い、徹底的にいじめの主犯格を探すことをしました。
僕は該当しませんでしたが、先輩にしても同級生にしてもひどいいじめをした者は「強制退学」という重い処分を下したのです。
当時のいじめのことを考えると閉鎖的な学校空間では、それが日常になってしまい、何も考えられずに、生活していたことを思い出します。
世の中がまるで白黒になってしまったように、自分がイラつくかイラつかないかの単純な思考でしか判断できなくなり、自分の思考が狂ってしまっている状況が1年も続いたのです。
とても苦しい1年間でした。
当時のことを思い返すと、いじめ問題は肌感覚で、一人では絶対に解決できない難しい問題であるという実感をしています。
だからこそ、シンプルに離れるという選択肢ことが一番だと思っています。
いじめを苦にして退部した仲間もいましたが、彼らは僕たちがやったいじめを許してくれるでしょうか。
いじめの被害者でもあり、いじめの加害者ともなった奇妙な1年間は今の僕にとってはとても重要な経験です。
エネルギーバンパイアは「自分が満たされないこと」からはじまるのです。
ですから、子供に対して制約や我慢をさせるのは、いじめを助長することに繋がると確信しています。
最後までご覧いただき、ありがとうございます。
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