『何のために生まれて何をして喜ぶ?』人生を楽しむコツは子供が知っていた!

「人生山あり谷あり」?

「人生は修行」?

「生きていく事は苦しいこと」?

「人生は苦しいもの」?

などなど、大人とされる人たちが並べる人生の経験則には上記のような内容は必ず出てくると思います。

その表現たるや・・・枚挙に遑がないですよね。

 

僕も「人生は大変」とか「先のことを考えて今は我慢しなさい」とか色々言われた気がします。

それを素直に受け入れた時期もあれば受け入れなかった時期もあります。

でも、最近は自分の子供や小さな子供たちの遊び方、生き方にフォーカスするようになり、全く違ったものが見えてきました。

それは人生の楽しみ方は大人ではなく「子供がすでに知っていた!」という発見です。笑

 

欠乏感からの興味

 

まず、僕は大学生くらいの頃から読書する機会がすごく多くて、今でも必要な本はよく読みます。

やりたいことの本はもちろんのこと、小説、ライトノベルから簡単な解説書、たまに自己啓発書、自伝などなど、自分の学びになると思った本は何でも購入して読んでみます。

全部は読まないことも多いですが、基本的に何か学べることがひとつでもあれば良いと思っています。

そうした中で得られたものって文字だけでは表現できないくらい素晴らしいものでしたし、わざわざ活字を読むことの素晴らしさを語ったら10,000文字くらいはかかりそうな勢いです。

無理やり一言で表現するなら本は「人生の予習」ができることだと思います。

先人達が経験してきたことなどが意外と本の中に眠っていることが多いのです。

 

まぁ、本の話は脇に逸れてしまうので、本題に戻るとして、そもそもなぜ本を読むようになったかと。

それは「欠乏感」からの知識欲、興味だったのです。

 

2011年に東日本大震災があり、大学が休講となってしまい長期のお休みを余儀なくされた時期がありました。

その時になんとなく感じたんです。

今の世の中、おかしいと。

当時のニュースや記事などを読み、冷静に考えたらおかしなことだらけで、世の中根本が捻れていると正直思いました。

最近も特におかしなことがありましたが、それには触れません。笑

 

当時は大学生で相当、自由気ままなはずなのに、なぜかいつも満たされない何かを探していて、人生に足りないものをいつも探していました。

本当の意味で満たされ、時間を忘れ没頭していたのは大好きな釣りをしていた時くらいで、それ以外の時間はなぜか眠気があり、シャキッとしない毎日、満たされない心が宙にふわふわしている状態で、常に何かを探していました。

その満たされない心という名の欠乏感が強く出たのは、震災でのほぼ強制的な休暇でした。

普通なら、何をしても自由な休みで大喜びしても良いのでしょうが、喜びとは逆でストレスがかかっていました。

理由はテレビでのネガティブなニュースの数々によるものが大きかったと思います。

震災で知り合いや知人を亡くしていた時期でもありましたし、同級生に関しては家すら失った人もいました。

そんな状態で、メンタルも安定せず、体重も2ヶ月くらいで10キロくらいは増えたと思います。

 

その中でも唯一の希望は本を読むことでした。

当時は本の虫とも呼べる状態で、気になるタイトルは全て目を通し、購入の目星をつけてから大量購入、一度の買い物で万単位購入したことも何度もあります。

買っては読み、それを売り、買っては読みの繰り返しでした。

毎日、笑いあり、涙ありを繰り返し、本によって色々発見もあり、自分の思考を少しづつ変えていくようなそんな感覚でした。

温故知新、昔から言葉・文字というものはこれだけ人々に影響を与えていたのかと考えされました。

 

はじまりは全て欠乏感からの興味だったのです。

 

多くの日本の大人が色々な情報を仕入れ、生活や生き方を向上させようと色々なことに興味を持ち、トライしているように思われますが、実はその根本には純粋な興味ではなく、満たされないものからのスタートではないかと思ってなりません。

 

大人が忘れているもの

 

1歳半の息子が興味の赴くままに、無邪気に走り回り・転び、何かを触り、こねくり回し、何かをくっつけてみたり、色々と手を使って遊ぶのを見ていた時にふと気がついたことがありました。

昔から探し求めていた答えが目の前にあるじゃん!と・・・笑

その瞬間、気付きの波が押し寄せ、泣きそうになっていました。

大人って子供から学ぶって言うけど、本当だわぁと。

 

無邪気に興味の赴くままに遊ぶこと、これが人生を充実させるためには本当に大事なことだ、と感じるようになりました。

冷静に考えてみれば、充実していた期間はほとんど何も制約がない状態で、純粋に興味の赴くままに生きていたと思い出したのです。

釣りをしていて「これかな」「あれかな」と創意工夫している時、行き詰まった仕事のヒントがふっと閃いた後の爆発的な行動力などなど、思い出せば出すほど、純粋な興味がわき、行動していた時って楽しくて時間が過ぎたのか過ぎてないのかわからないくらい楽しかったりするんですよね。

 

反対に「これをしなくてはいけない」「誰々さんに迷惑をかけちゃうからこんなことしちゃいけない」「一般常識的に上手くいくわけがない」「明日の仕事に影響するから寝ないと」などなど、そう言う思考の制約がある状態では楽しめることも楽しめてないですし、純粋な興味なんて遠い状態です。

今の社会で生きる大人達は疲弊しきっていることも多いため、日々の生活の忙しさで「楽しいこと」「興味があること」「好きなこと」すら忘れてしまっているような気がします。

 

誰かが言っていました。

「子供は何もできない、わかっていない。成長して自立するまで大人が教育・躾しなくてはならない?」

 

それ本気で言ってます?

大人こそ、大事なことを忘れてしまっていると思うんです。

 

子供と遊んであげることは凄く大事で愛おしい時間だと思います。

でも、自分自身楽しむ時間を持つことはさらに愛おしい時間だと感じます。

結果的に親が楽しむ時間が子供にも影響するのですから。

 

何のために生まれて、何をして喜ぶ

 

アンパンマンのオープニングの歌詞って実はすごく深いんですよね。

「何のために生まれて、何をして喜ぶ」ですよ?

この歌詞だけで10,000文字くらいの記事は書けそうな勢いで深い言葉です。笑

 

今の大人たちは人生についてわかった風な言葉を並べ、色々とアドバイスしてくることがありますが、当の本人に上記質問をぶつけてみるとほとんど答えられないんです。

明確に自分の人生とは何かを表現できる人は極端に少なくなるのではないかと思ってなりません。

なぜなら、上記のように無邪気に何かを楽しんだり、ワクワク感や機嫌の良い感情を忘れているからに他なりません。

 

翻って、読者の方はどうでしょうか。

胸キュンしてますか?

楽しいことしてますか?

ワクワクしてますか?

ドキドキしてますか?

ご機嫌ですか?

 

本当の意味で人生を深く深く捉えた時に、明らかに「楽しむために生まれてきている」と実感することが最近多いんです。

いくら様々な人生論を語られてもあまり符に落ちない理由がわかりました。

何を隠そう、自身のハートは嘘つかないことを理解してしまったのですから。

それを忘れてはいけないとあらためて思いました。

 

人生は不安や恐怖に振り回されることほど、もったいないことはないと感じています。

 

昔、チャゲアスの歌(Sons and Daughters ~それより僕が伝えたいのは)で「僕から君へと伝えたいのはあの日の夏、君を抱きながら僕を抱いている、いつか来た道で思い出したいあの日の僕」と歌詞がありますが、まさに今の僕。

この歌詞ハートに、じんわりきます。

 

最後までご覧頂きありがとうございます。

プロフィール

プロフィール「新しい子育て研究家兼ライフコンディショナー」

○名前:じょーもんパパ ○出身地:青森県 30代のアウトドア・釣り好き、サッカー日本代表好き。 「2歳の男の子・0歳の女の子」二児の父親。 妻と息子と娘と4人暮らし。自分も子供も大事にする子育て・生き方を模索中。興味のあることは何でもやってみるをモットーに生活中。「自分が生まれた意味」は好きなこと・得意なことにこっそり隠れていると信じている。自分を満たすからこそ、コップから溢れるように周りも大事に出来ると伝えている。

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