世にも不思議な批判論『世界を平和にする愛の種』

日本のみならず、ネット上には数えきれないほどの批判が書かれています。

その批判について根本から考えていきたいと思います。

今回の記事では、あなたが探している愛の種を紹介します。

今回の結論

「家族・親子のみならず、国、どこかの組織に限らず批判は片方からの視点でしか無く、相手は相手、自分は自分であるため、究極には批判という概念すら不要」「批判している人は依存体質・人としての自立とは反対の方向」「勝手に怒っている人の怒りの原因はその人の中にある、周りは関係無し」

 

サッカー日本代表への批判と国外のマスコミ

 

以前、サッカーの有名コメンテーターが日本代表が不甲斐ない試合をしてもこの国の人たちは「ありがとうと言って迎える、そうでは強くなれない。他国では批判することで強くなる。」と述べられていました。

一見、日本が他国より遅れをとっており、日本が強くなれない国民性を説いているように感じますが、全く反対に近いことだと思います。

サッカー選手は批判されるためにサッカーをしているわけでもなく、負けるためにサッカーをやっているわけではありません。

批判している側が勝手に自国のチームが負けたことにより、自尊心が下がったり、期待していた分、期待が外れたりして、勝手に怒っていたりしているだけなのです。

中には常に何かを批判していて、粗探しをしていて、ストレス解消的な感覚で批判している人達がいます。

そう言う意味で、ネットでの批判はどちらかと言えば、ストレス解消的な感覚に過ぎないのかもしれません。

 

『正しい、間違っている』正義や悪は片方から見た視点にしか過ぎない

 

いわゆる正論と言われるものを理路整然と言う方がいますが、いくら理論的に解かれていても本人が納得できないことに対して同意する必要はないと思います。

どうしてかと言えば、アンパンマンの記事でも書きましたが、正しいや間違っている・正義や悪という概念は片方からみた視点と考えでしかないからです。

アンパンマンは暴力的に解決するという点だけにフォーカスすれば、アンパンマンが悪という捉え方もできるという話です。

つまり、どんな議論や話し合いにおいてもお互いの視点が違えば意見や考え方が違い、またそれぞれの現実や経験も違うのですから、見ている景色や意見というのは全く持って違うはずなのです。

その時のタイミング次第でも大きく変わりますよね。

 

視点を少し大きくすれば、常識も民族やその地域に住む人々によって違います。

視点を個人にすれば、AさんにはAさんの現実があり、BさんにはBさんの現実があります。

例え、同じ景色を見ていたとしても、感じ方や見ている景色は同じではないのです。

ものすごくシンプルな話なのですが、日本人は上の人が言ったことは盲目的に正しいことと考えてしまうように学校からも社会からも徹底的に教育されているので、自分の感じ方、感覚や心の声を無視する習慣がついているような気がします。

自分が感じる世界や景色は自分だけのものであると言うことを思い出して欲しいと切に願います。

微妙な違いがそれぞれの現実ですから、そもそも人生の経験や見ている現実が違うということからも、他人を批判すること自体はナンセンスだと思います。

だからこそ、他人の批判という行為自体、実は必要のない行為であるのです。

これが正しい、これが間違っているという思考の刷り込みをしてきたのは一体誰だったのか、あらためて考えてみてください。

数字などによる比較、印象操作、権威づけにより、誰々が上で誰々が下と教育されてきたのです。

これらを善悪などの思考操作に応用すれば、人々・一般庶民の思考を使い、戦わせ、争わせ続けることも当たり前のようにできるのです。

特に日本人は、これが正しいと謳い、批判することが当たり前と刷り込まれ、いわゆる一般常識を用いて、それから外れるものは良くないと教育されてきました。

そういう思考操作をするものや考え方は、すごく身近にたくさんありますよね。

一般常識や普通という言葉は僕は好きではないですが、多くの人が使います。

しかし、冷静に考えれば「一般常識的な人間」「普通の人間」とは一体何のことでしょうか。

もう一度そうしたところから自分自身で考えてみる必要があります。

 

『アンチは最大のファン』の本質は『依存』

 

自分は自分、相手は相手という考えが当たり前に出来れば、争う必要も批判・非難する必要もなくなります。

日本は相手への尊重がなく、モラハラ大国ですから陰で批判を繰り返しする人が多いように感じます。

批判をしているうちは相手へ依存しているだけです。

厳しいことを言えば、依存しているうちは自立した人ではないのです。

「アンチは最大のファン」という言葉がありますが、その本質は「依存」なのです。

ネットに悪口や批判を永遠と書いている人は依存体質と言えるかもしれません。

 

怒る人の中に怒る原因がある

 

自分がしたことに対して怒っている人がいたとします。

誰が悪いですか?

実際は誰も悪くありません。

あらゆるシチュエーションでも変わりません。

「あの人が掃除をやらないから私は怒っているのよ」と怒っている人がいたとします。

それは、掃除をやらない人が悪いのではありません。

掃除をやらないことが良くないことと思っている人が勝手に怒っているだけであり、怒りの原因は怒っている人が持っているのです。

そして、本質的には相手へイライラし怒っているように思えて、自分自身の考えにイライラしているのです。

 

遥か昔の歴史を振り返っても、古今東西、この世界では「これが悪い」「これは良くない」といった「善悪の判断」「一般常識」「社会人的な道徳感」「宗教的概念」などにおいて模範的善悪が常に言われてきました。

しかし、それは人々の思考から自由を奪います。

また、そうした刷り込みを行うことで、人々の怒りの種を作り出し、不機嫌になる人を無限に生み出すのです。

あの人は○○を行っているから悪である、あの人は○○を行っていないから悪である、と。

批判や不満はネガティブな感情を生み出し、自分にも相手にも連鎖し、共振していきます。

宇宙的な視点から物事を考えれば、怒りの原因となる善悪などの二元論は存在せず、人間ならではの狭いものの見方でしかないと考えます。

大きな視点を持てば、もっとわかりやすいと思いますが、地球上にさえ、多くの生物が存在し、岩などの鉱物や水と言った存在、または目に見えない沢山の存在達が様々な形態で様々な価値観で存在しています。

宇宙的な規模となれば、もはや理解不能なレベルの存在達がいますし、オスメスという概念すらない存在だって考えれられますし、物理的なことを言えば、実際に時間や空間などは存在していない可能性の方が遥かに高いのです。

時間や空間が存在していないの話は長くなるので今回は割愛しますが、そうした物質的視点ではない物の見方を視野に入れてみてください。

人間的な狭い物事の価値観や考え方で捉えるのは、あまりに小さ過ぎであると気がつくと思います。

 

この社会の土台となっている依存的思考

 

日本はサービス大国と言われ、お客様第一主義が当たり前のように行われています。

一見、素晴らしい社会のように見えますが、その裏では仕事をし、サービスを提供している側が疲弊し、ストレスを感じているのが現状です。

そのサービスが当たり前になり過ぎた結果、仕事をしている人達に依存する人達が現れます。

その人達が行き過ぎた結果、クレーマーと呼ばれるのです。

誰かのためのサービス・自己犠牲的な仕事をし続けた結果、そのサービスでは足りない人が現れ、そして、それが当たり前となり、依存し、いずれ不満が生まれます。

その不満が爆発した形がクレームとなり、表面化してくるのだと思います。

つまり「お客様のために」などと言う企業側の論理を繰り返しているうちは、常に依存が生まれてしまいます。

これはこの社会の土台が「相互依存」であることを物語っています。

「お客様のために〜」や「支え合い」などという綺麗な言葉を使っていますが、日本社会の本質は相互依存であることがわかります。

この相互依存こそが「不満」という感情を生み出し続ける要因ではないでしょうか。

相互依存ではない一人一人が精神的にも経済的にも自立した社会こそが、真の幸福に向かう一つにヒントだと考えます。

 

そろそろ、意図して思考操作をされ続けているという事実に気が付く時です。

この社会の全体的な形を見れば、庶民と言われる人々がいかに思考操作されているかと理解できると思います。

 

押し付けれた思考の檻に閉じ込めれた人々は狭く、苦しい人生を進んでいくことになります。

自らの思考が厳しい現実を創造しているのです。

他人は他人、自分は自分という1人の個性であることを思い出すことがヒントになります。

愛をベースにした社会では、自立した個性と個性同士が重なり溶けて自然と素晴らしい音色を奏でるのです。

いわゆるパーフェクトハーモニーです。

 

他人の粗を探す人は素敵に人には一生会えない

 

結婚相談所などで、様々な条件で結婚するために活動されている方がいます。

しかし、活動されている方の中で結婚相手の条件を見てマイナス点などの粗を探している人がいると聞きます。

結婚相談所にお勤めされている方から直接聞いたことがあるのですが、男性のマイナス点ばかり指摘する人はやはり良い人に恵まれないそうです。

結ばれたとしても、長続きしないそうです。

僕はその話を聞いて妙に納得してしまいました。

冷静に考えて見れば、競争や比較といった学校で学んだことをベースに他人の粗を探せばいくらでも出てきますし、夫婦・パートナーともなり、一緒に生活した場合、互いに育った環境が違うのですから、自分に合わない箇所は数えきれないほど出てくるでしょう。

そうした相手の存在を尊重できずに粗を探して、怒ったり、イライラしたり、指摘したりして不機嫌になる人が多いように感じます。

かなり厳しいことを言いますがそうした人は、思考の問題で幸せに過ごすのは難しいと思います。

全て思考の問題なのです。

なぜなら、完璧な人間などいないのですから、王子様級のあり得ないくらい素敵な人が目の前にいたとしても、本人が他人の粗を探す癖がついてしまう人であれば、幸せに過ごすのは至難の技です。

自分と少し合わない箇所があっても好き!と最初の頃は思うでしょうが、本人の思考が粗を探す習慣がついている場合、時間の問題で、いずれ必ず不満が生まれます。

翻ってあなたはどうでしょうか。

他人の悪口や粗ばかり探していないでしょうか。

幸せになりたいと誰もが考えていると思いますが、本質は現代社会で言われていることの反対にあることが非常に多いです。

幸せになるには、どうすれば良いのかと言えば、相手の素敵な部分だけ見れば良いと思います。

それ以外は気にしない。

それだけです。

前述の通り、他人の粗を気にしているうちは、誰かに、何かに依存していて、自立が出来ていない考えを持っていると考えた方が良いかもしれません。

いつもお伝えしている通り「相手への尊敬・尊重、そして感謝」は平和を生み出します。

その平和はさらなる平和を創り、循環していくのです。

思考は現実化するのです。

 

刷り込まれた思考は簡単に抜くことは難しいと思います。

世間に数多くいる「あなたのためよ」と相手に言ってくる人は自分の意見を押しつけているだけです。

 

真の優しさ・本当の愛とは何かを自分で思い出してください。

自分が好きなこと、相手の素敵なことに集中してください。

それが自立した生活をする土台となるのです。

 

最後までご覧頂きありがとうございます。

プロフィール

プロフィール「新しい子育て研究家兼ライフコンディショナー」

○名前:じょーもんパパ ○出身地:青森県 30代のアウトドア・釣り好き、サッカー日本代表好き。 「2歳の男の子・0歳の女の子」二児の父親。 妻と息子と娘と4人暮らし。自分も子供も大事にする子育て・生き方を模索中。興味のあることは何でもやってみるをモットーに生活中。「自分が生まれた意味」は好きなこと・得意なことにこっそり隠れていると信じている。自分を満たすからこそ、コップから溢れるように周りも大事に出来ると伝えている。

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