『徳を積む』とは愛のない考え方の一つ『実は嘘』

世の中には『徳を積む』『陰徳を積む』などの考え方があり、それらを推奨し、良い行いをしましょうと言う話があります。

それらに少しでも疑問を感じる人・意味がないと考えている人へ向けた記事です。

今回の結論

そもそも、良いことをして、良いことが返ってくるという善徳の考えは愛ではない

そのため、徳を積むという考えに愛はなく、非常にビジネス的

まるで社会システムの延長にあるような「利益を得る的な」考え

人を一時的に助けることは素晴らしいとされているが、ずっと助けられないのが問題

人を助けることは依存を生み、依存は自立を妨げる

 

『徳を積む』とは

 

徳を積むとは社会的に道徳的に良いとされている行いをすることで、自分にその良いことが返ってくるという考え方です。

主に儒教や仏教の教えからきているようです。

まず、いつも記事でお伝えしている通り、道徳的や社会的に、というワードが時代背景によっても違いますし、その時々によって違うため、「良い行い」とは何なのか僕は疑問です。

そもそもですが、信じている人には大変申し訳ないですが、「徳を積む」と現象は僕は存在していないと考えています。

 

なぜなら、自分自身の感覚で、徳を積むことで得られる何かが何も感じ取れないからです。

別の言い方をすれば、自身の感覚の中で、何かが蓄積されていったり、良い行いをすることによって何かが返ってくるという感覚が全くないからです。

そう言うと感情のないロボットのような人なのか、と思われてしまいますが、そうではありません。笑

普段の生活の中で外部にある情報を肌感覚的に感じとる習慣がある僕にとって、「徳を積む」ことで生じる現象が全く感じられないということです。

もし、徳を積むことで何か良いことが返ってくるのであれば、何かエネルギー的に感じる物があるはずです。

それらがないということは僕としては、そうした徳を積む行為に対して肯定は出来ないという状態です。

 

また、「普通は〜」という会話にあるように普通という人はいるのでしょうか。

という考えと一緒で「良い行いをするとは〜」は誰にとって、何のための良い行いなのでしょうか。

人によって、文化によって、国によって、まで違うのです。

極端なことを言えば、国によっては政治家や権力者を○すことが良い行いという解釈をする国の状況のところもあるわけです。

道端で立ち上がれない人を助けることが必ずしも良い行いとは言えないのです。

なぜなら、その人は自分の力で立ち上がりたくて、もがいていたかもしれません。

自分の力で自立しようとしている人を周りが困ってそうだからと言って、安易に助けることはかえってその人を助けてくれる人の依存へ向かわせ、結果として不幸な人生を歩むことになるかもしれません。

つまり、良い行いとは見ている人の主観によってまるで変わってくるものです。

 

良い行いをしたから良いことが返ってくるというのは愛のない考え

 

僕はこの徳を積むという考えに一番違和感を感じるのは、この資本主義における、何かをしたから、何かリターンがあるというビジネス的な考えがあるところに途轍もない違和感を感じます。

愛を説いている人が、愛を人に与えれば、自分に愛が返ってくるという発言をすることも同じく違和感を感じます。

これもビジネス的で、現代の社会システム的な思想がとても反映されているからです。

シンプルに相手のことを尊重した結果、無償で何かを手助けしたり、相手の自立を促すことをするのではダメでしょうか。

何か見返りがあるから、他人を助けるのでしょうか。

徳を積む考えとは単純に自分のために他人を助けるという話なのです。

何が言いたいかと言えば、「徳を積むために〜」と人に説いている人は、端的に言えば、「自分の利益を得るために〜」と言い換えているのと何も変わらないことに気がついて欲しいのです。

違和感を感じている人がいれば、その正体は現代的な社会システムの延長的な利益を得るという考えが見え隠れしているからだと思います。

 

人を助けることは素晴らしいことですが・・・

 

人を助けることはとても素敵なことです。

みんながみんな、提供し助け合いをしていれば、とても素敵な世界ができるでしょう。

しかい、現実問題、人を助けることに対して多くの人が見落としている事実があります。

それは、人を助けることを継続することは大変難しいという事実です。

例えば、大きな震災があり、被災地にボランティアで現地に行ったとしても、その人の使用できる時間や期間、そして、お金には限界があり、単純に人助け一つとっても様々な障壁があるのは想像に難しくないです。

何より、本人の意思の継続がかなり難易度の高い事実として、我々の目の前に現れます。

どう言うことかと言えば、自己犠牲や我慢の精神を多少持ち、人助けのために行動していると、いずれ、自分自身のエネルギーが枯渇し、他人を助けるどころではなくなるのです。

素晴らしい精神を持っている人でも自分自身のエネルギーが枯渇してしまえば、必ず、エネルギーの補給をしなくては、継続ができません。

疲れている時や自分の思い通りにならない時、とてもストレスを感じている時にやる気が突然なくなってしまうのと一緒で、心のやる気は枯渇してしまうタイミングは必ずあります。

僕は人助けをするためにエネルギーを補充する必要があると思います。

そのエネルギーの補給方法の一つとして、僕は「好きなこと・興味のあること」を推奨しているのです。

自分が満たされると愛が溢れてきます。

その溢れた愛を還元するという形が本来の人助けのあり様ではないでしょうか。

ですから、順番が逆なのです。

まず、自分のことを考え、自分を大事にすることが結果的に人助けに繋がるのです。

これは実際に体験してみないとわからないと思います。

とても自分自身が楽しい日を過ごした日はご機嫌さんになり、他人にも、寛容になり、困っている人があれば、無条件で助けたくなります。

僕は世の中がそんな考えで溢れれば、全ての問題が解決するとさえ、考えています。

人の心とはそう言うものではないでしょうか。

 

上記のような考えをベースにすれば、徳を積むという考えはある意味矛盾があり、不合理なやり方であることは理解がしやすいと思います。

 

また、最後にお伝えしたいことは助けられることが当たり前になってしまうと、助けられる側が助けてくれる側に対して依存的な思考を持ってしまいます。

誰かのせいにしたり、他人が悪いと言う思考になることは、依存的な思考であり、自立を妨げます。

もう一度、本来の意味で人を助けるとはどう言う意味なのか自分自身に問うて、行動したいものです。

 

日本語には結構、真実に近しい本質が隠されていることがあります。

それは「人の為と書いて偽(にせ)」と読むことです。

 

最後までご覧いただきありがとうございます。

プロフィール

プロフィール「新しい子育て研究家兼ライフコンディショナー」

○名前:じょーもんパパ ○出身地:青森県 30代のアウトドア・釣り好き、サッカー日本代表好き。 「2歳の男の子・0歳の女の子」二児の父親。 妻と息子と娘と4人暮らし。自分も子供も大事にする子育て・生き方を模索中。興味のあることは何でもやってみるをモットーに生活中。「自分が生まれた意味」は好きなこと・得意なことにこっそり隠れていると信じている。自分を満たすからこそ、コップから溢れるように周りも大事に出来ると伝えている。

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