ふと妻の実家で子育ての合間にテレビをボッーと見ていた時に、ある番組で女性のファッションについての特集をやっていました。
その中で頻繁に「体型カバー術」と言う言葉が乱立しており、非常に違和感を感じています。
まるでその人の体型がダメで、その体型を隠してくださいとテレビが視聴者に対して宣言しているような状況です。
冷静に考えて、失礼極まりないですし、人それぞれ個性があるので、別に他人が体型がどーのこーの言う必要はないと思います。
体型的な理想があり、それに近づけたいと考えている人にとっては有益かもしれませんが、そのようなモデルケースを打ち出すやり方には昔から違和感を覚えます。
普段僕はほとんどテレビを観ることがなく、真剣に聞くことも見ることもあまりありません。
なんとなく面白そうなミステリー系の番組や魚釣りや自然の番組を観る、後はサッカーの国際試合くらいで、ほとんどテレビを真剣に観るという習慣がありません。
1人暮らしの時代はテレビそのものは持っていたのですが、5年以上テレビ線を繋いだことがなく、地上波のテレビをつけることはありませんでした。
確か、サッカーのワールドカップを観るためだけにテレビ線を家電量販店に買いに行き、繋いで観たくらいなので、
中学生くらいまでしかテレビをしっかり観ることはない人生でした。
朝のニュースでも夕方のニュースでも暗い話題しか流さないですし、番組を観てもあまり自分の人生に役に立たないと昔から思っていました。
ややテレビ嫌いというところでしょうか。
そんな僕がいつも違和感を感じるのが、テレビが放映する「モデルケース」という概念。
例えば、女性の美しい像は顔が小さくて、足が長くて細身、くびれが見え隠れして、ファッショナブルな容姿に素敵な笑顔を備えたいわゆるモデルという方々が出てきます。
何を隠そう、僕自身がそのモデルと言われる人たちを美しいと感じる感性を持ち合わせていません。
そもそも人それぞれ好みは違いますし、人類全体の時代、人種も違えば、美に対する価値観は違います。
ふくよかな女性が美の象徴とされた時代もあったわけですから。
今更、当たり前の話ですが、人それぞれ、好みや個性があります。
腕が太い女性が居ても良いですし、体型がふくよかでも、足が短くても何も問題ありませんよね。
僕も足は短めですし、足の形はややエックス脚ですが全く気にしていません。
これが僕の個性ですから。
テレビが勝手に言っているモデルケースを世間がガンガン押し付けてくるせいでどれだけの人々が勘違いし、自分に自信を失っているかを考えるととても悲しい話ですよね。
それでもテレビに出ているモデルに一歩でも近付きたいという気持ちで努力したりするのは個人の自由ですから、頑張りたい人は頑張れば良いのです。
そんなことより、勝手にモデルケースを打ち出し、勝手に押し付けてくる姿勢が良くありません。
なぜなら、自分のことを嫌いになる要因を世間に流布しているに等しいからです。
自分は自分で良くて、他人と比べる必要もなく、どちらが優れていると優劣をつける必要もないと思います。
どちらが好きかという好みの問題はあれど、不要なモデルケースを押し付け、人々の自信を失わせることは論外だと思います。
こうしたモデルケースの流布が当たり前に行われてきたため、「女性とはこうあるべき」と発言する人が昔から絶えないのです。
モデルケース流布型のメディアこそが世間の混乱や苦しさの原因を作っていたと僕は思えてなりません。
別記事でも記載していますが、自分を嫌いになる過程を作り、本当に自分のことが嫌いになっていく悲しさを知ってください。
自分のことが嫌いな人は社会や他人のことも嫌いになります。
僕はそう考えています。
自分のことを大事にできる人が他人を大事にできるのです。
それと本質は変わりません。
今回のテーマでもある「モデルケースの理屈」は何も容姿だけの話ではないのは僕の他の記事を読んで頂ければ、よく理解して頂けると思います。
以上です。
最後までご覧頂きありがとうございます。
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